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雨の降りしきる夜、私は終電を逃してしまった。
岡山県の山深い地域を走る閑散としたローカル線。
次の始発は朝の5時だという。
駅員は既に帰ってしまい、待合室で一晩を過ごすしかないと諦めかけた時だった。
「まだ一本あるよ」
背後から声がした。
振り返ると、古びた駅員帽を被った老人が立っていた。
白髪交じりの髭を蓄え、深いしわの刻まれた顔には、どこか悲しげな表情が浮かんでいた。
「霧待線の終電がもうすぐ来る。乗れば街まで出られるよ」
地図にない路線名だったが、この寒さの中で待つよりはましだと思った。
老人の言葉に従い、ホームの端にある階段を下りると、確かにそこには別のホームがあった。
階段を降りるにつれ、周囲の空気が変わっていくのを感じた。
湿った冷気が肌を刺し、何か得体の知れない匂いが鼻をついた。
霧が立ち込める中、古びた木造の駅舎が見えてきた。
「霧待駅」と書かれた看板が風に揺れている。
不思議なことに、さっきまで降っていた雨は止んでいた。
代わりに、濃い霧が辺りを包み込み、視界を遮っていた。
間もなく、古い客車を引く蒸気機関車が滑り込んできた。
黒い車体に赤錆が浮き、車輪からは不気味な軋み音が響く。
乗客は私一人。
車内は昭和初期のままの内装で、木の匂いと古い革の香りが混ざっていた。
座席の布地は所々破れ、天井には蜘蛛の巣が張っていた。
列車は動き出し、窓の外は深い霧に包まれていた。
時折、霧の向こうに人影が見えるような気がした。
目を凝らすと、それは人の形をしているようで、しかし何か違和感があった。
腕や足の長さが普通ではなく、頭部の形も奇妙だった。私は思わず目を逸らした。
携帯電話を取り出したが、圏外表示のままだった。
時計を見ると、針が狂ったように逆回転している。
不安が胸をよぎる。
この列車は本当に街へ向かっているのだろうか。
車内アナウンスが鳴り響いた。
「お客様にお知らせいたします。
この列車は霧の世界を巡る特別列車です。
次の駅では、あなたの過去が待っています」
何かの冗談だろうか。
しかし、アナウンスの声には妙な説得力があった。
一時間ほど経っただろうか。
列車はゆっくりと停車した。
「次は影待駅、影待駅です」とアナウンスが流れた。
さっきは確かに「霧待駅」だったはずなのに。
ホームに降りると、そこは廃墟のような駅だった。
薄暗い照明の下、待合室のベンチに腰掛けた老婆が一人、編み物をしている。
彼女に声をかけようと近づくと、老婆はゆっくりと顔を上げた。
顔がなかった。
恐怖で足がすくみ、すぐさま列車に戻ろうとしたが、列車は既に発車していた。
駅の外に出ると、そこは見知らぬ村だった。
街灯もなく、月明かりだけが道を照らしている。
家々は朽ち果て、瓦が落ち、障子が破れていた。
まるで何十年も前に廃村になったかのようだ。
遠くに灯りが見えた。
誰かに助けを求めようと、その家に向かって歩き始めた。
しかし、どれだけ歩いても灯りは近づかない。
むしろ遠ざかっているようだった。
足元を見ると、道は血の色に染まっていた。
後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、三人の村人が立っていた。
血で汚れた作業着を着て、手には鎌や斧を持っている。
彼らの目は赤く光り、口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。
「お客さんが来たぞ」一人が言った。
「今夜の生贄だ」もう一人が答えた。
「逃がすな」最後の一人が叫んだ。
彼らは一斉に私に向かって走り出した。
私も必死で逃げた。
道なき道を走り、藪をかき分け、崖を転がり落ちながら逃げた。
背後からは村人たちの叫び声と、斧や鎌が空を切る音が聞こえてくる。
息も絶え絶えに走り続けると、突如として霧が晴れた。
気がつくと、また駅に戻っていた。
しかし今度は「待霧駅」という名前になっていた。
ホームには先ほどの列車が止まっていた。
逃げるように列車に飛び乗った。
車内には先ほどいなかった乗客が数人いた。
彼らは皆、虚ろな目で前を見つめている。
話しかけても反応はない。
よく見ると、全員の首筋に同じ模様の痣があった。
その痣は、まるで小さな顔のようにうごめいているように見えた。
列車は再び動き出した。
窓の外を見ると、霧の中に無数の顔が浮かんでいる。
彼らは皆、苦しそうな表情で列車を見つめていた。
その中に、自分の顔があることに気づいて背筋が凍った。
「次は終点、無待駅です。無待駅です」
アナウンスが流れた瞬間、車内の照明が消え、乗客たちが一斉に私の方を向いた。
彼らの目は赤く光り、口が裂けるように広がっていく。
その口からは長い舌が伸び、私に絡みつこうとしていた。
恐怖のあまり、私は非常ドアを開け、走行中の列車から飛び降りた。
闇の中へ落ちていく感覚。
そして、強い衝撃と共に意識が遠のいていった。
目を覚ますと、私は最初の駅の待合室にいた。
朝日が差し込み、駅員が私を起こしていた。
「お客さん、ここで寝ると風邪ひきますよ」
夢だったのか。安堵のため息をついた私は、駅員に尋ねた。
「この辺りに霧待線という路線はありますか?」
駅員は顔色を変えた。
「50年前に廃線になった路線です。事故があって…」
駅員の話によれば、霧待線の終電が崖下に転落し、乗客全員が亡くなったという。
事故があった日は、今日と同じ日付だった。
安堵したのも束の間、ポケットから何かが落ちた。
拾い上げると、それは古びた切符だった。
行き先には「霧待駅→影待駅→待霧駅→無待駅→現世外」と印字されていた。
そして切符の裏には、鉛筆で走り書きされた文字があった。
「また来てね」
駅を出ようとした時、改札口で切符を出そうとしたが見つからない。
駅員に事情を説明すると、彼は不思議そうな顔をした。
「この駅に改札はありませんよ。無人駅ですから」
振り返ると、確かにそこに改札はなかった。
しかし、私の目の前には確かに駅員がいる。
彼は笑顔で言った。
「お客さん、次の列車はもうすぐです。霧待線の始発ですよ」
彼の首筋には、あの痣があった。
窓の外を見ると、駅は徐々に霧に包まれ始めていた。
そして遠くから、蒸気機関車の汽笛が聞こえてきた。
霧の中から、あの列車が姿を現す。
そして、私の足は勝手に動き出し、その列車へと向かっていった。
これが終わりなのか、それとも新たな始まりなのか。
霧の中へ消えていく私には、もうわからなかった。
- 工事中
- 工事中
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